天智3(664)年に、663年の白村江の戦いに敗れた倭(当時の日本)が、国内防備を固めるために築いた防衛施設で、福岡平野の最奥部を遮るように築かれた延長1.2kmに及ぶ長大な土塁が今も残る。博多側に外濠、太宰府側に内濠を備える姿は、『日本書紀』の「於筑紫、築大堤貯水、名曰水城」の記述とも符合する。東西2か所に城門が設けられ、奈良時代以降、大宰府と同じ軒瓦が葺かれた。水城の西の丘陵地帯には谷部を遮断する土塁が数か所で見つかっており、一連の防衛ラインを形成していた。