色定法師は、宗像大社社僧であった兼祐の子、名は良祐。後ち、経祐・栄祐と称し、色定と改めた。法華経四功徳の文を読んで感得し、父母の菩提を弔うべく一切経の書写を発願した。治承年中(1177~1181)に宋から将来された唐本一切経を原本として、文治3年(1187)29才で書写を始め、42年間を費して安貞2年(1228)70才で5048巻全部を写し、これを宗像大社に献納した。所謂一切経書写には、伝教大師、僧天海、鉄眼等の例があるが、これらは多くの資力・人力を動員してなされたものであって、色定の如く一社僧の身で単身この事業を成し遂げたことは驚異である。