幕末の勤皇志士・眞木和泉守保臣が、久留米藩の藩政改革の失敗により謹慎させられた際に9年9カ月の間過ごした地で、復元と修復による建物が伴う。藩政改革を巡る対立の中で、1852(嘉永5)年に水田天満宮宮司である直弟大鳥居理兵衛のもとに謹慎させられることになった和泉守は、大鳥居家の一角のこの地に移り住み、4畳半と3畳からなる居を構えた。1862(文久2)年に薩摩へと脱藩するまで、この地で武学の門弟教育に従事し、多くの倒幕・尊王運動家を世に送り出した。