菅公関連神社に牛の像を置くことは、菅公が丑年生れで牛を愛したことや、牛の鳴声で刺客から逃れたこと、また神廟の場所を定めたのが牛であったことなど、両者の深い結びつきによる。この臥牛の背面には陰刻銘で「宿坊延寿王院 願主福岡連中 博多連中 世話人博多住西嶋半七祐寛 画工博多住眠蝶斎耕景守章 鋳工博多住山鹿儀平藤原包賢 文化二乙丑年(1805)十一月吉祥日」と記される。山鹿儀平は芦屋の鋳物師であり、慶長年中(1596~1615)長政公入国の頃までは、芦屋に鋳工が多かったが、その後断絶し、子孫達は博多や姪浜に移り住んだと伝えられる。また画工名が并記され、江戸時代における鋳工と絵師とのつながりを示す資料である。