古代大宰府の律令官人を養成する機関で、大宰府の官衙域の東側に設けられていた。学校院では、西海道(九州)諸国の郡司子弟を対象に教育が行われ、大宰府で勤務する現地雇用の下級官人の養成が行われていたと考えられている。発掘調査では、複数の建物跡や区画溝などが見つかっており、建物の基壇などを飾ったと推定される華麗な宝相華文を施した文様塼が出土している。