戦国時代末期、豊臣秀吉の九州平定に備えるために秋月種実により築城されたと伝えられ、江戸時代になると、黒田氏の筑前入国とともに、国境付近に位置する城であることから、後藤基次(又兵衛)によって近世城郭として再築城された。慶長11年(1606)には、母里友信(太兵衛)が城主となったが、元和元年(1615)には、一国一城令により廃城になったとされる。曲輪群が、東西約200m×南北約20mの範囲に展開し、北側と東側、南側の尾根線上約450m四方の範囲で、戦国期に造られた曲輪群・畝状竪堀群が展開している。本丸や二の丸の曲輪や南北2か所の城門部分の構造等が確認され、本丸では4棟の礎石建物跡、二の丸では1棟の礎石建物跡と1棟の掘立柱建物跡が確認されている。