かつて太宰府の地には、西海道(九州)諸国を統治し、大陸や朝鮮半島への窓口として政治や外交、防衛を担った官衙(役所)、大宰府が置かれた。古代大宰府の中心的施設である政庁は、これまでの発掘調査により、掘立柱建物により構成される1期、瓦葺礎石建ちの建物へと建て替わる2期、そして天慶4(941)年、藤原純友の乱の焼き討ち後に再建された3期と、大きく3段階の変遷が確認されている。政庁跡の周辺には大宰府に関わる様々な官衙が配置され、官庁街が広がっていた。